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写真66
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 下の曲輪から二の丸への虎口を見上げる。切り通し状の狭くて急な坂道を登ると内側には門があったはずで、左右の土塁上からの攻撃を受ける。更に右手の二の丸上からも横矢が掛かるという、まさに絶体絶命なポイント。

 天正2年の武田氏の攻勢時、ニノ曲輪と堂の尾曲輪は最後まで残存したというので、やはりここは突破できなかったのだろう。(武田氏による改修前からこういう形状であったかは定かでないが。)

 「石積みが残ってる!」と思ったが、きっと祠を建てた時に整備したものなのだろう。

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 この曲輪には祠が建てられており、天正2年に討ち死にした徳川の城将・本間八郎三郎氏清、丸尾修理亮義清兄弟の墓石と、「天正二年戦死者之碑」がある。いずれも子孫によって建立されたとのこと。

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 現在、祠の左右を通行出来るが、写真右側の堀に面した方のルートは当時なかったと思われる。左側の虎口なら堂の尾曲輪からも背面攻撃を浴びせる事ができて、守るに好都合。

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 堂の尾曲輪との間の堀切。ザックリと尾根を切り取っている。向こう側は橘ヶ谷へと落ち込む。

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 中央を土橋状に残し、左右に堀が伸びている。

 比較的なだらかな赤根ヶ谷方面はこの城の弱点で、天正2年に武田勝頼が攻めた際はこの方面から攻め上ったという。武田氏が城を奪取後に弱点を補うべく大改修したため、現在見られるこの付近の遺構は武田改修時のものとのこと。

写真69
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 土橋を渡った奥には門があったと思われる。祠がまるで櫓のように見えるが、土橋を見下ろす好立地なので当時も櫓があったのかもしれない。

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 二の丸西側を囲むように堀と土塁が伸びて、土塁上を通行できる。

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 この辺りは幅が広く、帯曲輪状になっている。薮が濃くて見学しにくい。

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 すぐ下は深い谷になっている。谷の向こうは馬場平。この赤根ヶ谷の端部を奥へと登って行けば、馬場平と西の丸の間の堀切に至る。

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