
中の丸と二の丸の間の堀。

説明板によると、中の丸へ向かうこの通路には当時木橋が架かり、櫓門があって、右手の土塁上にも櫓が設けられて、重厚な防御が施されていたとのこと。

中の丸の枡形虎口。遊歩道を作った時に少し改変されている感じ。

中の丸南西端の土塁上から見下す。このあたりに櫓があったらしい。現在でもかなりの高度感があって、通路に対して頭上から攻撃を浴びせられたであろう。二の丸内部も見通せ る。

中の丸。広場になっている。以前はここに宿泊施設があって、ここまで車で進入できたとか。

中の丸から河原にかけては、いくつもの腰郭があるのだが藪になっていて進めなかった。伐採整備されるそうなので、きれいになったらまた見学したい。

本丸へ続く復元木橋。説明板によると本丸の方に半分程引き込む引橋になっていたとのこと。中の丸と本丸の高低差は、ほとんど無いことがわかる。

木橋を大堀切底から見上げる。当時、木橋はもう少し低い位置にあったらしいが、堀も今より深かったというので、やはり相当な高さがあったはず。

現状では本丸と中の丸に直結した、低い場所にある広い曲輪。弁天池方向から敵が侵入して来たならばこの場所に出る。遮蔽物があると本丸や中の丸から頭上攻撃が浴びせられなくなってしまうので、この場所には建物が無く、馬場にでもなっていたのでは、と想像する。
しかし、香川元太郎の『ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城』掲載の復元図などでは、ここから本丸方向への城道は描かれておらず、行き止まりの空間になっている。大堀切の堀底道と何となく繋がっているだけの通路なので、公園化する時に作ったものなのか、平時に使用する通用口程度のものだったのだろうか。
工事案内板では「L字広場」という名前が付けられていた。

さらに弁天池方向に一段下った曲輪から「L字広場」方向を見る。奥の右手が虎口だったようだが、現在は藪になっていて通行できない。

「L字広場」の曲輪に付随する舌状部。両側が通路のようになっていて、右手の虎口は本丸西側の曲輪へ続く。ちょうど交差点を見下ろすようなこの場所には、弁天池方向からの侵入に備える防御施設があったのだろうか。

写真57の舌状部を池側から見る。銭湯の番台を思わせる配置。ここを突破すると本丸直下まで到達出来てしまうので、上の段には櫓でもあっただろうか。

鉢形城に類似する弁天池には小舟を浮かべて宴を催し、中の島は橋で繋がっていたと考えられている。そうすると中の島対岸のこの地点あたりに会所や庭園があったのかも知れない。

中の島から見た千畳敷下の腰郭。千畳敷からも池に下ることができる。この右手には船着場のような虎口があったらしく、千畳敷に会所があったと考えられているようだ。

左側の曲輪の斜面の険しさに比べて右側の曲輪はなだらかで防御する気が感じられない。元の地形のせいなのかも知れないが、会所のような非戦闘的な施設があったようにも思える。

本丸西側の曲輪が弁天池に接するあたり。

弁天池跡は、江戸時代の古図では既に不明瞭になっており、近年まで篠竹が密生して中の島の存在は知られていなかったという。
今後、このあたりに木道が設置されるそうで、見学しやすくなるのはありがたい。

弁天池北側の堤。昔はこの堤が繋がっていたというが、なぜ現状のように分断されたのだろう。斜面は整っていて自然に浸食・崩落したようにも思えない。大池の堤も同様にきれいに分断されているので、元々このように分断されていて、石と 木で作ったダムのようなものがあったのではないかと想像する。
しかし、この先は谷になって落ち込んでいて、ここをガッチリ閉塞しておかないと池の水は全部抜けてしまいそうなので、相当頑丈に作る必要があっただろう。

素人考えだが、ここが土塁状に繋がっていたとすると、せっかく谷で分断されている小宮曲輪から本丸方向への侵入が容易になってしまって防御上不都合に思えるし、手前にあったとされる木橋の必要性にも疑問が生じる。
『村人の城・戦国大名の城』掲載の図では、堤上に木橋を攻撃できる防御施設が描かれている。

小宮曲輪東端から本丸方向への木橋があったらしい位置。現在この橋は存在しないため、小宮曲輪と本丸西側の曲輪は谷で分断されていて、直接往来することは出来ない。

本丸西側の曲輪。正面の高所が通路に睨みを効かせている。

小宮曲輪への連絡木橋方向へ下る通路。このルートに入念な防御が施されていることを見ても、木橋の存在が確信される。