鉢形城
1、概要
鉢形城は武蔵国(現在の埼玉県大里郡寄居町)にあった城で、荒川と深沢川の合流点の崖端に築かれている。
城の北側と東側は断崖を天然の要害としており、平地に接する南西部から、崖に守られた北東端に向かって曲輪を連ね、深沢川対岸には外曲輪を配している。
文明8年(1476年)、関東管領上杉氏の家臣であった長尾景春が反乱を起こした際、景春によって築かれたと言われる。
長尾景春の没落後は上杉氏の本拠城となり、上杉氏衰退後には新しく関東の覇者となった北条氏によって整備拡張され、北武蔵、上野の支配拠点として利用された。
その後、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、代わって武蔵を治める事となった徳川氏には使用されず、廃城となって現在に至る。よって、現在も北条氏時代の遺構を良好に留めており、昭和7年には国史跡となっており、「日本100名城」にも選定されている。
※ 当ページの主な参考文献・Webサイト:
『関東戦国全史 〜関東から始まった戦国150年戦争〜』(山田邦明編)、『戦国北条五代』(黒田基樹)、『図説 太田道灌 〜江戸東京を切り開いた悲劇の名将〜』(黒田基樹)、『鉢形城指南』(鉢形城歴史館)、『寄居町公式ホームページ』、『Wikipedia』
2、所在地、見学情報
鉢形城跡は、埼玉県大里郡寄居町鉢形2609に所在する。JR、秩父鉄道の寄居駅からタクシーで約5分、徒歩15分程度。
城跡の大部分は鉢形城公園として整備されており、公園内にあるガイダンス施設・鉢形城歴史館では、鉢形城の歴史に関する展示があり、案内マップも入手出来るなど、とても見学しやすくなっている。
3、立地と歴史
鉢形城がある北武蔵は、秩父山地を隔てて甲斐国に接しており、利根川と神流川を境に上野国と接している。西上州の山を越えれば信濃国からも近い。北武蔵から見れば、甲斐、信濃、上野の勢力との攻防において重要な場所に位置する城であった。
荒川を挟んだ対岸には秩父往還が通っており、鉢形城は秩父山地から関東平野への出入口を押さえる形になっている。更に北には鎌倉街道上道が上州へ通じていて、鉢形城は交通の要衝に近い場所にある。
長尾景春によって築かれた後、関東管領上杉氏、北条氏の拠点として使用され、鉢形城の歴史はそのまま、関東戦国史であるとも言えよう。
(1) 長尾景春の乱と鉢形城
文明8年(1476年)、山内上杉氏の家宰職を継ぐことができなかった長尾景春が反乱を起こす。
当時、関東は享徳の乱の真っ最中であり、関東管領・山内上杉氏は、古河公方・足利成氏と抗争しており、五十子の陣を拠点として、古河を本拠とする公方勢力と睨み合っていた。
景春は五十子の陣を出ると、鉢形に赴き山内上杉陣営からの離脱姿勢を強める。鉢形城はこの時に長尾景春によって築かれたと考えられている。
翌文明9年正月、景春はついに挙兵し、鉢形城から出陣して五十子の陣を攻撃、山内上杉顕定、扇谷上杉定正らは上野国に逃亡した。
景春の反乱は山内上杉勢力を二分する争いとなり、さらに景春が「敵の敵」である古河公方・足利成氏と提携したため、この争いは関東一円に広がる戦乱に発展してゆく。


同年3月、景春の親戚で扇谷上杉家家宰の太田道灌が中心となり乱の鎮圧を開始、景春に与した勢力の石神井城、練馬城、小沢城などを攻略し鉢形城に迫った。
5月、道灌率いる上杉勢が迫ると、景春は鉢形城を出陣、用土原、針谷原で合戦となるが、激戦の末に敗北してしまう。
景春は古河公方・足利成氏に支援を要請、これを受けて7月に古河勢が東上野に出陣して背後を脅かしたため、上杉勢は白井城に退却を余儀なくされる。
その後、景春も上野に進軍し古河公方勢と連携し、上野国内で両軍の睨み合いが続くが、文明10年正月、景春の意思に反して古河公方は上杉勢と和睦してしまう。
上杉方は古河公方とは和睦したものの、景春と和睦した訳ではなかったため、乱の鎮圧を進めた。景春は足利成氏に従って成田陣に引き上げていたが、太田道灌が小机城、二宮城、小田原城など南武蔵、相模方面の景春方の諸城を攻略し、景春の勢力は大きく減退した。
7月、景春方が不利な状況になってくると、足利成氏は景春を見捨て、古河への帰還を目指す。
道灌は河越城を出陣し、青鳥を経て、荒川を越え、成田陣と鉢形城の間に布陣したと言う。どうやら三ヶ尻観音山あたりらしい。成田付近にいたと思われる景春は道灌の攻撃を受けて孤立し、秩父へ敗走せざるを得なかった。
この時に景春の本拠であった鉢形城も上杉勢の手に落ちたと思われるが、詳細は不明である。
「太田道灌状」にわざわざ「鉢形と成田の間」と記されていることから、道灌は景春が在陣する成田から本拠である鉢形城への退路を遮断する意図で布陣したと思われる。景春は鉢形城へ戻るに戻れなかったのだろう。それとも戦略的に鉢形城を捨てて秩父まで撤退したのか。いずれにせよ主を失った鉢形城は上杉勢の攻勢の前に落城、あるいは開城したと思われる。
景春与党の諸勢力が次々と追討される中、景春は再起を図り児玉郡に出て蜂起するが敗北。秩父日野要害に籠城するも、攻撃を受け落城した。景春は足利成氏を頼って没落し、これにより長尾景春の乱は終息した。
景春が去った後の鉢形城には、上杉顕定が入城する。五十子の陣が崩壊した後、山内上杉の本陣をどこにするかが問題となったが、太田道灌の「鉢形要害然るべし」との意見により、武蔵、上野支配の拠点としてふさわしい堅固な城として鉢形城が選ばれたという。
以後、鉢形城は関東管領・山内上杉氏の本拠城として機能し、山内上杉家当主は「鉢形様」と称されるようになる。

(2) 長享の乱と鉢形城
都鄙和睦によって享徳の乱は終結するが、山内上杉家と扇谷上杉家の対立が深まり、扇谷上杉定正は古河公方・足利成氏と連携して山内上杉顕定に対抗する。
長享2年(1488年)2月の実蒔原の戦い、同年6月の須賀谷原の戦いを経て、同年11月には鉢形城攻略を目指した扇谷勢が高見原で山内勢と対戦、敗れた山内勢は鉢形城に退却しているが、扇谷勢も城攻めをする余力はなかったようである。

明応3年(1494年)9月、扇谷上杉定正は伊豆から出陣して来た伊勢宗瑞(北条早雲)の軍と合流し、鉢形城に迫った。山内上杉顕定は鉢形城を出撃し、北方の藤田に布陣、荒川を挟んで高見原に布陣した扇谷勢と睨み合う形となった。しかし、翌月、荒川を越えて攻めようとした定正が渡河中に落馬して死亡、扇谷勢は退却せざるを得なかった。

扇谷上杉が形勢不利になると、古河公方・足利成氏はまたもや態度を翻し山内上杉に付く。
明応6年、山内上杉顕定は扇谷上杉の拠点・河越城攻略を目指して鉢形城を出て上戸に布陣。古河公方の軍勢とともに河越城を攻撃するが落城させることはできなかった。
文亀3年(1503年)、山内上杉顕定は再度、上戸に出陣、成氏の跡を継いで古河公方となっていた足利政氏と共に河越城を攻撃。更に9月には江戸城攻撃に向かう。
定正の跡を継いで当主となっていた扇谷上杉朝良は、伊勢宗瑞に援軍を求め、宗瑞は甥で駿河守護の今川氏親と共に来援する。扇谷連合軍と山内勢は立河原で合戦となるが、山内勢が大敗し、山内顕定は鉢形城に退却した。
鉢形城に帰った顕定は、弟で越後守護の上杉房能に助けを求めた。11月、房能から派遣された援軍と合流した顕定は椚田城など扇谷方の城を攻略し、扇谷上杉朝良の居城である河越城に迫った。援軍を得られなかった朝良は抗戦かなわずに降伏、長享の乱は山内上杉が勝利する形で終結した。
(3) 山内上杉家の内紛と鉢形城
永正6年(1509年)、山内上杉顕定は養子の憲房と共に越後に出陣、越後守護・上杉房能を倒して勢力を増していた守護代の長尾為景(上杉謙信の父)を攻めたが、翌年7月、顕定は長森原の合戦で討ち死してしまう。
顕定の死後、養子の憲房は白井城へ退却。そして鉢形城に居た顕定のもう一人の養子・上杉顕実(実父は古河公方・足利成氏)が家督と関東管領職を継ぐ事となった。しかし、憲房と顕実は対立し、これが古河公方家の内紛と結びついて争乱が発展していく。
永正9年6月、憲房は顕実が拠る鉢形城を攻撃。鉢形城は3日ともたずに落城し、顕実は敗走、憲房が新たに鉢形城の主となった。
鉢形城が本格的な攻撃を受けたのはこの時が初めてと思われるが、後に武田信玄の攻撃を退け、豊臣秀吉の大軍による攻囲に対して一月ほど持ち堪えた鉢形城が、わずか3日で落城してしまったとは、この当時の鉢形城は規模も小さくあまり堅固な作りではなかったのか、あるいは内応者が出たのかと想像する。
(4) 北条氏の支配拠点としての鉢形城
伊豆の伊勢宗瑞は次第にその勢力を広げ、扇谷上杉氏とも敵対してゆく。宗瑞の子・氏綱の代になって北条に改姓し、その頃には相模国をも支配する勢力に拡大していた。
北条氏綱は武蔵国への勢力拡大を図り、これに対抗するため扇谷上杉氏は山内上杉氏と和睦、北条氏と両上杉氏との一進一退の戦いが繰り広げられる。
天文15年(1546年)、氏綱の跡を継いでいた北条氏康は河越城を包囲する上杉方連合軍を破る。いわゆる「河越夜戦」として知られる戦いである。この戦の結果、扇谷上杉朝定は死亡、山内上杉憲政は越後に没落し、両上杉家は打倒され、北条氏は武蔵の大部分を支配下に置くことになる。
山内上杉家家老であった藤田康邦も北条氏康に従属し、氏康四男の氏邦が養子となって藤田氏の家督を継いだ。藤田氏の支配領域を継承した氏邦は鉢形城を本拠と定めて整備し、氏邦は「鉢形様」とも呼ばれるようになる。その支配領域は「鉢形領」と称され、鉢形城は北武蔵から上野方面の北条氏領国支配の拠点となった。
鉢形城は北条氏にとって、武田氏の支配領域である甲斐・信濃方面への守り、及び上野への攻略において重要な場所に位置する城であった。
氏邦が鉢形城に入った時期については、永禄3年、永禄7年、永禄12年など諸説あるようだが、『戦国北条五代』によると、武田氏との抗争に関連し、永禄11年10月から同12年2月までの間に本拠を移したらしい。

永禄4年(1561年)には、前年から上野に入っていた越後の長尾景虎(上杉謙信)が武蔵に来攻、松山城を落とし北条氏の本拠である小田原城まで攻め込んでいるが、この遠征の際、景虎は鉢形城を攻撃していないようである。やはり、この時点ではまだ鉢形城は本拠城として整備されていなかったという事だろうか。あるいは、周辺の国衆のほとんどが景虎に従属していたので、わざわざ攻略するまでもないと考えたのだろうか。
永禄12年(1569年)には、2月と7月に武田勢が志賀坂峠方向から鉢形領を攻撃しているが、鉢形衆が応戦して撃退。同年9月、武田信玄が碓氷峠を越えて本格的に北条領に侵攻、鉢形城も武田勢の攻撃を受ける。信玄は氏邦が籠城する鉢形城が簡単には落ちないと見て、攻略を諦めて転進、氏邦は防戦に成功する。
その後、武田勢は滝山城を攻めるがやはり落としきれずに、小田原城へ向かい包囲する。氏邦も小田原城の後詰のため出陣し、三増峠で武田軍と戦っている。
氏康の跡を継いだ北条氏政は越相同盟を破棄、再び敵対していた上杉謙信が天正2年(1574年)に関東に侵攻した。上杉勢は鉢形領内にも放火し北条方を挑発牽制したが、この際にも攻城戦までには至っていない。

(5) 豊臣秀吉による北条攻めと鉢形城
その後、信玄も謙信も没し、織田信長の勢力が関東に伸びるも本能寺の変を受けて崩壊、北条氏は新たに中央の支配者となった豊臣秀吉と対峙することになる。
様々な外交駆け引きの末に従属を誓った北条氏であったが、上洛を引き伸ばしているうちに名胡桃城事件が起こり、豊臣秀吉はそれを口実に北条氏討伐を決定。日本各地の大名の大軍が北条領に攻め寄せることとなった。
北条氏邦は駿河への先制攻撃を主張するが受け入れられず、小田原城には入らずに居城である鉢形城の守備に当たった。
碓氷峠から上野を経て侵攻した前田利家、上杉景勝、真田昌幸などの北国勢は、河越城など北武蔵の諸城を落とすと鉢形城に迫り、天正18年5月14日(1519年6月15日)、攻城を開始、鉢形城は大軍によって包囲された。防戦する氏邦は約3千の城兵と共に籠城した。
『戦国北条五代』によると、攻撃開始は天正18年6月初旬頃のことで、氏邦は早い段階で降伏開城を申し出たが、秀吉によって拒否されたという。
他の城では早々に開城を受け入れてもおり、結果的に鉢形城攻略には時間が掛かることになるのだが、なぜ秀吉はすぐに降伏を受け入れなかったのだろうか。既に松井田城、山中城などは力攻めで攻略しているので、鉢形城も簡単に落とせると考えたのだろうか。一方で、韮山城に対しては、籠城側が開城を拒否し、城が簡単に落ちないと見るや、付け城を築いて約3ヶ月に及ぶ包囲を行なっている。
秀吉は5月12日の時点で、房総方面の攻略を行っていた浅野長政に鉢形城攻撃に向かうよう指示しているが、長政がなかなか動かなかったため、再度5月20日と25日に鉢形城へ向かうよう指示している。秀吉が鉢形城攻略を重視していたことが窺える。これらの援軍の到着により、豊臣勢は総勢3万5千で鉢形城を包囲した。
攻囲開始以降、どのような攻城戦が行われたのだろうか。当初から開城交渉が行われていたとすると、おそらく積極的な攻撃は行われずに城を包囲していただけの状態が続いたのではないだろうか。開城後に守将の氏邦は剃髪して降伏、前田利家の嘆願により助命され、前田家預かりとなって加賀へ移り知行を与えられている。氏邦は北関東を中心に活動しており、弟の氏規のように上方との外交には携わっていないようなので、開戦以前から利家と面識があったようにも思われない。とすると、鉢形城攻囲戦を巡る交渉を通じて知遇を得ることになったのではないだろうか。やはり激しい攻城戦が続いていたようには思われない。浅野長政も秀吉の命令を受け流していたりするので、利家も秀吉からの督促にもかかわらず、現場判断で降伏開城の話を進めていたのではないだろうか。


「小田原の役」における主な攻城戦の一覧
援軍到着後の6月13日、ついに総攻撃が開始される。援軍が到着したので積極攻撃せざるを得なくなったのか、それとも援軍を得てようやく攻城の目処が立ったのだろうか。
本多忠勝が鉢形城南西方約1kmに位置する車山(標高226.8m)の山頂に大筒を据えて砲撃し大手門などを破壊、城内の被害が甚大になったことから翌日に降伏開城したという。しかし、車山は急峻で山頂部も非常に狭く、大砲を担ぎ上げて砲撃したことについては疑問視する見解もある。いずれにせよ、実際に戦闘が行われたのは1日間だけだったとも考えられ、開城交渉の経過を思うと、なんとなく出来レース的な感じがしないでもない。いずれにせよ包囲開始から1か月後の6月14日、城兵の助命を条件に降伏開城となった。丁度1ヶ月、短い説でも半月程の間、約10倍の大軍を相手に防戦したことになる。簡単に落とせる城であれば、とっとと攻略している訳で、どのような事情であれ、しばらく籠城を続けられたということは鉢形城の堅固さを物語っていると言えよう。

小田原征伐後、北条氏に代わって徳川家康が関東に入部するが、鉢形城は廃城となり、その後利用されることはなかった。
徳川領の外縁部は上野であり、鉢形領は「内地」であるため、城塞としての機能はこの地域に必要なかったという事なのだろうか。そのまま放置された結果、現代にその遺構を残しているのはありがたいことである。
4、地形

鉢形城は荒川と深沢川によって削られた断崖に挟まれた場所を中心に築かれている。深沢川対岸にある外曲輪は、北条氏時代の拡張によるものだろう。
断崖と川を天然の堀としているため、北から東にかけては攻められる危険性がなく、南西側の防御だけに集中できる。
しかし、南側の車山からは城内が丸見えになってしまったようで、豊臣軍の攻撃の際には車山から大砲を撃ち込まれたというが、大砲攻撃の恐れがない時代には大した問題ではなかったのだろう。

高低差を表す断面図。縦横比は10倍で表示。荒川河川敷から本曲輪高所の高低差は約34メートル。
この城は分類上、平山城ということになっているが、崖下から見れば高い位置にあるものの、台地上から見れば平城同然であり、平山城と言われても何かしっくり来ない。「崖城」という分類用語の方が分かりやすいと思う。

各曲輪の高低差を表す断面図。縦横比は5倍で表示。
元の地形のため、鉢形城は外側に位置する下位の曲輪の方が標高が高くなっているのが分かる。「穴城」で有名な小諸城を思い出す。このままでは外側の曲輪から見下ろされてしまうので、土塁を相当高く盛る必要があったであろう。
5、縄張り

鉢形城の縄張り概略図。「鉢形城公園フィールドマップ」、「鉢形城指南」、現地復元模型等を参考に作図。
荒川と深沢川を天然の水堀とし、南東の大手側から順に曲輪を連ねた連郭式の縄張りになっている。深沢川対岸に設けられた広大な外曲輪は北条氏時代の拡張によるものと思われる。当時はその外側に城下町が形成されていた。築城当初は伝御殿曲輪周辺のみが城域だったらしい。
伝秩父曲輪周辺には、工夫が凝らされた繊細にして重厚な縄張りが見られるが、それはこの部分の復元整備が進んでいるからであって、他の部分も同様に高度な縄張りが施されていたことであろう。
現在では城址の中心部分を道路が通っており、本曲輪東側の土塁が大々的に破壊されているなど、当時の縄張りの状況が掴みにくくなっている部分がある。
城周辺には鍛冶小路、内宿、寺町などの地名が記録に残っており、武家屋敷が立ち並び城下町が展開していたと推定されている。