top of page
09

 弁天社跡の小島には弁財天を祀った社があったという。この位置から木橋が架かっていたのだろうか。奥に見える伝大光寺曲輪との間を隔てる堀と繋がった池だった。

 弁財天は水運の神として信仰されていたとのことで、相模湾、江戸湾の海運や、相模川、多摩川などの河川の水運を支配していた北条氏にとって大切な神様だったらしく、小田原城にも弁財天曲輪があり、弁財天を祀った小島があったとのこと。滝山城にも同様の弁天池がある。

 池に船を浮かべて遊覧したというから、伝秩父曲輪の庭園と合わせて、この辺りは賓客を迎える施設が置かれていたようだ。

10

 おくり泉水との間に突き出た半島のような土塁上から弁天社を見る。

 奥にある段になっている曲輪の下段と、左手の伝大光寺曲輪の間に木橋が架かっていたとのこと。

 土塁が切れて、深沢川へ落ち込んでいる部分。ここには木や石で作ったダムのような水門があったのではないだろうか。それとも昔は土塁があったのか。そうでないと池の水が全部抜けてしまいそうだ。

 おくり泉水側の土塁も切れていて土塁の側面を見ることが出来る。

 しかし、「おくり」とは「送り」なのだろうか?どういう意味だろう?

 伝逸見曲輪の堀になっている部分は、おくり泉水より浅くなっているのが分かる。

11

 池に突き出た半島状の土塁によって、池が弁天社側とおくり泉水側に仕切られている。

12

 おくり泉水にワッフル状の畝が見られるが、障子堀になっていたのだろうか。または、後世に水田にでもなっていた時のものだろうか。

 ニの曲輪と三の曲輪の間の堀は障子堀だったとのこと。

13

 広大な伝逸見曲輪。昭和時代には桑畑だったらしい。

14

 草刈りをしてくれてあるので、遺構がよく分かる。

15

 二の曲輪馬出と伝逸見曲輪の間の堀。当時はもっと深かったのだろう。小さな畝は堀底からの侵入を阻むためのものだろうか、水を溜めていたのか。

16

 二の曲輪馬出から見下ろす。おくり泉水は複雑な構造になっていたようだ。

 深沢川に面した土塁と馬出の土塁は途切れている。もし繋がっていると川から侵入して来た敵が土塁を伝って馬出に入れてしまうからだろう。

 馬出の土塁側面には石が見られるが、石垣と言うより、土塁斜面に並べ置いただけの張り石のようだ。復元による物だろう。

17

 二の曲輪馬出南端から。伝逸見曲輪に排水口があり、おくり泉水に流れ込んでいる。敷石は復元によるものだろう。

 「泉水」と言うくらいだから、どこからか水が湧き出ていたと思われるが、どこから湧き出て、どの辺りまで水が満たされていたのだろう。

 二の曲輪馬出の土塁南端から、現在鉢形城歴史館が建っている対岸の外曲輪を見る。

 深い渓谷になっていて、絶対に越えられそうにない。

18

 馬出と二の曲輪の間の堀を埋め立てて道路が敷設されているため、この辺りが当時どうなっていたのか分かりにくくなっている。

 二の曲輪と三の曲輪を繋いでいたのは、この深沢川側の馬出と、もう一つの荒川側の馬出の二ヶ所のみである。

 荒川側の馬出が巧妙重厚な作りであった事が復元によって分かるので、この馬出の構造も同様にかなり工夫されたものだったと考えられる。

 ここは復元模型などでは土橋で繋がっているのだが、その痕跡が分からない。道路部分が土橋だったとすると馬出しを経由しないルートになり、何か納得いかない。それとも、荒川側の馬出と同様に崖際に土橋があったのだろうか。

 とりあえず、写真左手あたりに木橋が架かっていて、二の曲輪と繋がっていたと考える。

 二の曲輪と三の曲輪の間の堀は大規模で、当時は幅24m、深さ12mもあったという。

 写真手前の道路の部分は堀だったはず。

bottom of page