top of page
38

 二の曲輪と三の曲輪の間の堀は、現地案内板によると幅24m、深さ12mもあって、障子堀になっていたという。この大規模な堀によって二の曲輪と三の曲輪が分断されており、両曲輪は南北二ヶ所の馬出のみを経由して繋がっていた。

 二の曲輪の土塁は元の高さが不明のため、低く復元されている。堀際には犬走りと言うにはずいぶんと広い空間がある。

39

 伝秩父曲輪内から二の曲輪馬出方向を見る。

 柵の外が一段低くなっているので、当時はこの部分が城道だったように思える。その方が馬出からの横矢が掛かって好都合なのだが、考えすぎか。

40

 伝秩父曲輪と馬出の間に架けられた復元木橋。当時は引き橋だったのだろうか。

 この堀は当時深さ7,4mの薬研堀だった。そのまま荒川の崖へと落ち込んでいる。

41

 伝秩父曲輪内から馬出を見る。以前は「御金蔵」と呼ばれ、蔵があったと思われていたとか。発掘調査の結果を生かして、きれいに復元整備されている。

42

 馬出と二の曲輪の間の堀。右手、対岸の曲輪内は馬出よりも高くなっている。

 二の曲輪と三の曲輪を繋いでいるのは、この馬出と深沢川側にあるもう一つの馬出のみであり、ここは鉢形城中枢に至る要所である。

43

 橋の接合部は曲輪より一段低くなっている。

 馬出内部には石積みが復元されている。荒川側を除いた三方に5段の石積みがあったとのこと。二の曲輪への進路を防御する重要な馬出のため強固に作られていたのだろう。

44

 馬出内から伝秩父曲輪方向を見る。現在でも斜面は急で堀は深い。

 曲輪端の一段低い部分が城道になっていて、馬出から攻撃できるようになっていたのではないだろうか。

45

 左側の堀の対岸の「伝矢倉跡」は櫓台のように高くなっていて、この馬出を見下ろしている。

46

 馬出から二の曲輪へ至る土橋を見下ろす。

 土橋の向こうは荒川の断崖絶壁である。侵入者がもし馬出を突破しても、この細い土橋を渡らねば二の曲輪へは行けないのだ。恐るべき縄張り!鉢形城の見所の一つである。

47

 二の曲輪側から。右は荒川の断崖、左の堀も深かったので、この狭い土橋を渡るのは平時でも怖かっただろう。戦時には左手前の二の曲輪内からの激しい頭上攻撃に晒される訳で、絶対に生きて渡れそうにない。

 ここはとても狭い土橋なので、メインの登城ルートは深沢川側の馬出経由だったと思われる。

 堀底は現在平面だが、当時は薬研堀だったとのこと。

48

 二の曲輪内の高所・伝矢倉跡から馬出方向を見下ろす。ここには現在城山稲荷神社が建てられており、社殿裏は藪になってしまっていてよく見渡せない。

 当時は櫓があって土橋に睨みを効かせていたことだろう。この位置から攻撃されたら、狭い土橋上の敵は絶体絶命、というか絶対に絶命であろう。

49

 二の曲輪北側の土塁上から虎口を見下ろす。

 三の曲輪から続く狭い土橋を渡ると城道は直角に折れ曲がり、両側の土塁上から見下ろされる形で曲輪内へと続いている。

50

 二の曲輪内から虎口を見る。ここには門があって敵の侵入を阻んでいたことだろう。

51

 二の曲輪側から馬出の木橋を見る。きれいに復元整備されていて分かりやすい。

 二の曲輪の土塁前面の犬走り状の空間はとても広い。現地案内板によると「城兵が守備につく空間」と説明されているが、三の曲輪から見下ろされる形のこの部分が、三の曲輪に対する防御上どのように機能したのか疑問である。

bottom of page