
三の丸下の曲輪から見下ろす急斜面。木が生えている現在でも、落ちたら這い上がるのは困難だろう。

三の丸下の曲輪。この先端から着到櫓が見下ろせる位置。この曲輪に井戸があったらしい。

三の丸下の曲輪からは登城路が良く見下ろせる。侵入してきた敵の頭上から存分に攻撃を浴びせることが出来ただろう。

三の丸から北方を望む。遠くまで良く見渡せる。
正面の丘陵は能ケ坂砦があった辺りだろうか。画面右端に火ヶ峰砦。

三の丸北側の土塁上。右側斜面の急峻な様子が分かる。

三の丸下の段から上の段を見る。左側が虎口になっていて、端に細い土塁が残る。

三の丸上の段から下の段を見下ろす。
三の丸下の段は土塁に囲まれた広い曲輪で、複数の建物があったらしい。現在では東屋とトイレが設置されている。
案内板によると、三の丸は城内の武将が宿営した所で、武田軍来攻時に徳川軍の守将・小笠原与左衛門清有が守備したことから与左衛門平とも呼ばれる。
現在の見学通路(写真22)を進んで来るとこの場所に出るが、三の丸を見下ろす位置になってしまい、登城ルートとしては大変不都合である。このことから考えると、現在の見学通路は当時存在した登城路ではなかったと思われる。

三の丸西端から本丸方向を見る。三の丸と本丸を繋ぐ唯一の地点となっていて、大手からの登城ルートで最重要の部分と言えよう。
現在はなんとなく繋がっているが、当時は木橋か土橋だったと思われる。香川元太郎の復元図では大堀切に木橋が描かれている。三の丸を敵に取られた場合、確実に分断するには、やはり木橋の方がいいと思われる。

現在は階段が設置されている見学順路。
屈曲して下からは見通せなくなっているが、もしここを敵に突破されると三の丸が分断され、更に上から見下ろされることになって防御上不都合なため、メインの登城路ではなかったと思われる。
おそらく、平時には梯子を下ろして堀底道的に使用し、戦時にはここから下って写真10の交差点で敵を挟撃するための出撃路となっていたのではないだろうか。