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 井戸曲輪から西の丸への登城路。屈曲しつつ登り、右の西の丸内部方向と左の物見台方向へと分かれている。

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 物見台方向への道は、冬だというのに深い藪に覆われていて見学を断念せざるを得なかった。

手前には神社に付随する建物が無惨に倒壊、放置されていた。

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 西の丸下段には現在社務所が建てられている。

案内板によると、西の丸は武田家の家臣・岡部丹波守真幸(岡部元信)が守備していたことから丹波曲輪という別名があるとのこと。

「堀切」という標柱が立っているが、何を指しているのかよく分からなかった。

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 西の丸上段には高天神社が建てられている。城が現役当時から守護神として城内に祀られていた当社は、元々東峰にあったものが西峰に移された。

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 社殿は土塁に囲まれているが、社殿の造営に伴い土塁は少し削られたようだ。当時も何らかの建物があったのだろう。

 左手に下る道は馬場平へと至る。

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 西の丸最高部から馬場平へのルート。深い堀切によって隔てられている。

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 西の丸と馬場平の間を隔絶する堀切。赤根ヶ谷へと落ち込んでいる。

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 馬場平上から堀切を見下ろす。当時はここに木橋が掛かっていたはず。

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 馬場平。右手の低くなっている一角は土塁で囲まれており、赤根ヶ谷方向から堀切を登って来る敵に対する備えだったと思われる。

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 馬場平には馬を走らす馬場があったのかと思いきや、案内板によると「馬場」とは「番場」の当て字で、見張番所を意味するという。

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 馬場平から南方を望む。遠く海まで見渡せる。

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 「甚五郎抜け道」は、天正9年の落城の際、武田の軍監・横田甚五郎伊松が脱出したルートであるとの事。別名「犬戻り猿戻り」。

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  小笠山丘陵に続くこの尾根は、両側が細く切り立ったナイフリッジになっていて、樹木が茂っている現在でも通るのが怖いくらいである。当時、樹木は一切無かったはずで、「犬戻り猿戻り」の名称に相応しい危険で怖い場所だったのだろう。

 案内板によると横田甚五郎は「馬を馳せて」脱出したというが、こんな狭隘な剣路を騎行したとは信じ難い。

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