top of page
写真23
写真23.jpg

本丸方向へ向かう城道は急な坂になっている。谷側に築かれた土塁はこの下を通る城道への防御のためなのだろう。

写真24
写真24−1.jpg

三の丸方向を見る。この辺りに門があったと思われる。内側は少し広くなっている。

写真24−2.jpg

御前曲輪からの攻撃が降り注ぐであろう城道。

写真25
写真25.jpg

本丸方向。この辺りは谷側に土塁が無く狭い。侵入した敵は無事では済まなさそう。

写真26
写真26.jpg

三の丸方向を見る。

 この細く長い城道が、三の丸から本丸への侵入を阻む重要ポイントとなっている。

写真27
写真27.jpg

本丸・御前曲輪へ登る城道。三の丸方向から来るとヘアピンカーブになっている。

写真28
写真28−1.jpg

三の丸方向からの登城路を見下ろす。

写真28−2.jpg

左に進むと本丸虎口、右の階段を登ると御前曲輪へ至る。

 しかし、右の進路は城の最深部への直通ルートとなってしまい、敵に対して余りにもサービスが良すぎる。この道は当時は無かったと思われ、おそらく元天神社の参道か、模擬天守を建てた時にでも作られたのではないだろうか。

写真28−3.jpg

本丸虎口。

 両側が土塁と斜面に挟まれて切り通しのようになっており、重厚な防御が施されている。やはり城の核心部への入り口はこのようになっていなければならない筈で、現在階段が設置されている通路は後付けであろうと確信できる。

写真29
写真29−1.jpg

現在、西の丸にある高天神社は、元はこの場所にあったのでここは元天神社と呼ばれている。御前曲輪の中でも少し高くなっている部分であり、高天神城の最高所となる。

 『戦国の城』掲載の縄張図ではこの部分のみが「御前曲輪」と表記されている。近世城郭であれば天守が建てられたような、この城の中枢部だったと思われる。

 左側には現在下り階段があるのだが、当時からそこが城道であったとすると、この城の最深部に直通になってしまい不都合である。元天神社の参道として作られた道と考えられる。

写真29−2.jpg

御前曲輪の現状。

 昭和9年に地元出身の軍人が2層の模擬天守を建てたが、昭和20年に落雷により焼失したという。「史実を無視したヘンなもの作るな!」という天の御意志であろうか…。

 「小笠原与八郎長忠夫妻」の顔出しパネルが設置されているが、陳腐というか滑稽な感じになってしまっているのは残念だ。なお与八郎長忠とは徳川の城将・小笠原氏助(信興)の別名とのこと。大鎧姿であるが、鳩尾の板が2枚あったりして、ツッコミ所が多い作風となっていて楽しい。

写真30
写真30.jpg

御前曲輪から東方を望む。

 高天神六砦の案内板が設置されていて、徳川氏が築いた火ヶ峰砦が至近距離にあるのがよく分かる。

 こんな近くに敵の砦が構築されていくのを眺めざるを得なかった城兵の心境はさぞ悲痛なものであっただろう。

写真31
写真31.jpg

御前曲輪内から本丸方向。ここに門があったと思われる。

bottom of page