高天神城
1、概要
高天神城は遠江国城東郡、現在の静岡県掛川市にあった山城である。小笠山丘陵の南東部に位置する、標高132メートルの鶴翁山(高天神山)の複雑な山容を利用して作られており、難攻不落の名城として知られた。
『高天神軍記』によると築城者は南北朝期の武将・今川了俊とされているが、実際の築城時期はもっと下り、16世紀初め頃と考えられている。駿河守護・今川氏親が遠江攻略の拠点として、重臣の福島助春を在城させたというのが、確かな記録による初見であるという。
その後、小笠原氏助(信興)が城主となっていたが、今川氏滅亡に際して徳川家康に降り、高天神城は徳川氏の城となった。以後、徳川氏と武田氏との激しい攻防が繰り返されることになる。
江戸時代には廃城となっており、戦国期の姿が比較的良好に残されている。
※ 当ページの主な参考文献・Webサイト:
『戦国の城』(小和田哲男)、『国衆の戦国史 〜遠江の百年戦争と「地域領主」の興亡〜』(鈴木将典)、『地形と立地から読み解く「戦国の城」』(萩原さちこ)、『掛川市』公式Webサイト、『Wikipedia』
2、所在地、見学情報
高天神城跡は静岡県掛川市上土方に所在する。
JR掛川駅からタクシー約20分。駐車場は大手側に約10台、搦手側に約100台。城跡は遊歩道が整備され、案内板も設置されている。
整備されているとはいえ山城なので、見学はちょっとした山登りとなる。じっくり見学するならトレッキングシューズ推奨。搦手側から入城して全域を見学しようとすると、一旦登ってから大手に下って再度登り返さなければならないので、大手側から往復する方が楽であろう。
3、立地、攻防の経緯
遠江国南東部の支配拠点として機能した城だが、東海道や浜街道、更に菊川などの河川からも離れていて、交通の要衝とは言い難い場所に位置している。
しかし、遠江南東部の防衛拠点としては重要な場所に位置しており、また駿河から遠江に攻め入る場合、避けては通れない場所でもあり、「高天神を制する者は遠江を制す」と言われたとか。
小笠山丘陵は古大井川の扇状地が隆起侵食されて出来た山地で、その南東部に位置する鶴翁山は尾根と谷が複雑に入り組み、堅固な城郭を作るのには適地であったと思われる。『戦国の城』では「独立丘陵」と表現されているが、小笠山丘陵と尾根続きになっており、完全な独立峰という感じではない。なお、地理院地図の他、複数の地図では「高天神山」と表記されている。

武田氏の遠江侵攻と諸城の位置関係図(地理院地図を加工して作成)
海岸線は現在のもので、当時とは異なっている。
元亀2年(1571年)3月、武田信玄が2万5千の大軍を率いて来攻、塩買坂に陣を敷き高天神城を攻めるも、難攻不落と見たのか数日で陣を払って引き上げたと言われる。
翌元亀3年(1572年)10月、別方面から再び遠江に侵攻した信玄は、徳川氏の支配領域を東西に分断する事を企図し、遠江支配の重要拠点であった二俣城をはじめとする諸城を攻略、徳川氏の本拠である浜松城に迫る。しかし、武田軍は浜松城を素通りし、打って出た家康は三方ヶ原で大敗を喫する事になる。
ところが信玄は元亀4年(1573年)4月に急死してしまい、勝頼がその跡を嗣ぐこととなる。
天正2年(1574年)5月、武田勝頼が2万5千の軍勢で駿河から遠江に攻め寄せ、高天神城を攻囲する(第一次高天神城の戦い)。城主・小笠原氏助は家康に援軍を求めるが、家康も大軍を相手に単独で後詰することは出来なかった。家康は織田信長に助けを求めるが、信長も他方面での戦いに忙殺されており、その余裕はなかった。
小笠原氏助は本丸、西の丸に追い詰められながらも1ヶ月余り抗戦したが、ついに降伏開城した。城兵は全て助命され、氏助は武田氏に従属して転封、城代として横田甚五郎尹松が配属された。結局、家康は高天神城を救援する事が出来ずに面目を失い、遠江の支配権も大きく揺らぐ事になる。
父・信玄が落とせなかった高天神城を落城させた勝頼は、徳川氏に対する攻勢を強め、翌天正3年(1575年)5月、三河の長篠城を攻囲する。しかし、後詰に駆けつけた家康・信長の連合軍を前に、設楽ヶ原で惨敗、その勢力は大きく減退した。

遠江国南東部の攻防図(地理院地図を加工して作成)
長篠の合戦後、徳川氏による反攻が開始され、二俣城、犬居城、諏訪原城など、武田方であった遠江の諸城が攻略され、高天神城はしだいに孤立化してゆく。
天正5年(1577年)7月、家康は高天神城に迫るが、後詰に出て来た勝頼に牽制され、攻略はならなかった。
高天神城攻略を目指す家康は、天正6年(1578年)7月に横須賀城を築いて大須賀康高を入城させて攻略の足掛かりとした。勝頼は同年10月に横須賀城に攻め寄せるなど、この頃には遠江での活発な軍事行動が見られる。また高天神城の防衛を強化するため、城代として岡部元信を入れ、横田尹松は軍監となっている。
その後、天正7年に掛けて、高天神城・小山城の武田軍と、横須賀城・掛川城・牧野城(諏訪原城)の徳川軍の間で小競り合いが続けられる。

徳川軍による高天神城包囲網(地理院地図を加工して作成)
高低差を2倍にして表示。
堅城である高天神城を力攻めで落とすのは困難と見た家康は、城を包囲し兵糧攻めを行うこととし、天正7年から8年にかけて高天神城の周囲に「高天神六砦」と呼ばれる砦群を築き、城の包囲を固めていった。勝頼は御館の乱の結果を受けて再び敵対することとなった北条氏との戦いもあり、この頃には遠江に出陣する余裕がすでに無くなっていたらしく、高天神城の目と鼻の先に複数の砦を構築されるのを許さざるを得なかった。
武田方は滝堺城や相良城を経由して高天神城への補給を試みるが、徳川方の包囲は厳しく補給は成功せず、高天神城の守備兵は苦しい籠城戦を強いられた。
もはや勝頼には高天神城に援軍を差し向ける余裕はなく、守備兵は飢え、落城は時間の問題となった。天正9年(1581年)1月、城将は降伏開城を申し入れるが、信長の意向を受けた家康はこれを拒絶する。これは勝頼の援軍を誘い出すためとも、勝頼が城を見殺しにした事を喧伝するためとも言われる。
同年3月、援軍も来ず、兵糧も絶え、降伏も拒絶されたことによって死を決した城兵が打って出て、その全てが討ち死にし、高天神城は壮絶な落城を遂げた(第二次高天神城の戦い)。
高天神城を失った武田氏は遠江での勢力のほとんどを失った。また、高天神城の守備兵には駿河、信濃、上野から動員された者も多く、それらの者達が救援されなかった事実は、遠江のみならず武田氏領国全体に動揺を与える結果となった。これにより武田氏は衰退の度を早め、翌天正10年(1582年)、ついに滅亡するのである。
武田氏滅亡後、遠江の全てが徳川氏の支配下に入るが、高天神城は徳川氏によって利用されることはなく、廃城となった。
4、地形

高天神城は小笠山丘陵の南東部に突き出した山嶺に構築されている。南東方向をよく見渡せる立地である。

北西方向からの俯瞰。小笠山丘陵とは一応、尾根続きになってはいるが、「犬戻り猿戻り」と呼ばれるその尾根は非常に狭く険しいナイフリッジとなっている。

大手方向からの俯瞰。東峰と西峰に分かれた山の尾根と谷を巧みに利用して城域が構成されている。

搦手方向から。東峰と西峰の城域は総じて一つの城ながら、それぞれ独立した城のようであり「一城別郭」と呼ばれる構造である。

高低差を表す断面図(地理院地図を加工して作成)。縦横比は2倍で表示。
山麓からの比高は約100メートル。大手から登っても、搦手から登っても急峻な山容である。
5、縄張り

高天神城縄張り概略図。『戦国の城』掲載の縄張図、現地案内板等を参考に作図。
東峰と西峰に分かれた城域を中央の井戸曲輪が繋いだ形になっており、東西の曲輪がそれぞれ独立した城のようであることから「一城別郭」と呼ばれる。武田勝頼は岡部と横田の二将体制でこの城を守らせたが、こういう構造を踏まえてのことであろう。
東峰は山容に従って削平して曲輪を配しただけの感じで、あまり工夫は見られない印象だが、西峰の井楼曲輪、堂の尾曲輪辺りは普請工事量も多く技巧的である。これは山の北西部が比較的なだらかであるため、山の急峻さに頼った縄張りが出来なかったからであろう。
曲輪の呼称は、原則的に現地案内板等の一般的な呼称に従ったが、『戦国の城』掲載の縄張図では、本丸が「ニの曲輪」、御前曲輪下段が「本曲輪」、御前曲輪上段が「御前曲輪」、二の丸が「堂の尾曲輪」と表記されており、その方が納得できる感じである。
二の丸というのは、西の丸に対しての第二の曲輪という意味合いであると思われ、城全体からするとこの位置の曲輪が「二の丸」と呼ばれるのは不自然である。そもそも曲輪を「丸」と呼ぶのは江戸時代に入ってのことらしいので、それらの呼称は後に付けられたものであり、この城が現役当時、それぞれの曲輪が何と呼ばれていたのかはよく分からない。
なお、当時は無かったと思われる「現在の通路」については、主として私個人の推測による。