柏原城(城山砦)
1 概要
柏原城は、城山砦、上杉砦とも呼ばれており、鎌倉時代の武士で畠山重忠の家来であった柏原太郎の居館跡とも言われ、初代鎌倉公方・足利基氏や二代目古河公方・足利政氏が陣城としたとも伝わる。
天文14年(1545年)には山内上杉憲政が、北条氏の属城となっていた河越城を奪還する際の攻略拠点とし、上戸、砂久保に出陣して河越城を包囲したが、いわゆる河越夜戦で敗れ去った。その後、北条氏の属城として利用されたと考えられている。
※ 当ページの主な参考文献、webサイト:『狭山市公式ウェブサイト』、『Wikipedia』、『戦国合戦事典』(小和田哲男)。
2 所在地・見学情報
柏原城址は、埼玉県狭山市柏原に所在する。現地説明板等では「城山砦跡」となっており、狭山市指定文化財・史跡になっている。上杉憲政が滞陣したことから「上杉砦」とも呼ばれる。
小規模な城砦ながら、それなりに遺構が残っており、行って見るとそれなりに面白い。
城址西側に車が4台ほど停められる駐車スペースがある。柏原河川敷公園の駐車場も近い。「柏原東」バス停近く。
ちなみに、見学後の近隣温泉は、天然温泉 花鳥風月(埼玉県日高市下大谷沢546)がオススメ。広い露天風呂や洞窟風呂など色々な湯を楽しめる。
3 立地

柏原城は入間川の河岸段丘上に築かれた平城である。入間川の水運を押さえる目的もあり川沿いのこの地に築城されたらしい。
上杉憲政らが攻略を目指した河越城は入間川の対岸の台地上に位置している。柏原城から更に河越城に近い上戸陣は、河越へ通じる街道と渡河地点を抑える場所に位置する大規模な陣城だったらしい。
山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍と、北条氏康が対戦した「河越城の戦い(河越夜戦)」は、北条軍の奇襲により、多勢の連合軍が潰走し、上杉朝定が戦死、上杉憲政も敗走したという。しかし、この合戦については一次資料が乏しく、後世に成立した軍記物などに依拠せざるを得ない部分も多く、大規模な合戦はなかったとする説もあり、その実態はよく分からないらしい。
北条氏康は偽りの和議で敵を油断させ、手勢で柏原、上戸の上杉軍を奇襲して潰走させたといわれるので、柏原城はその時に北条氏に攻略されたのかもしれない。

城砦は入間川に面した台地の端に築かれており、南東側は天然の崖により防御されている。地理院地図で見ると、この場所に城を築いた理由がよく分かる。
高低差を強調するため、高さの比率を2倍で表示している。

城址と低地との比高は約10メートル。低地は現在住宅地として造成されているので、当時はもう少し低かったのかも知れない。対岸も低地が広がっているので、台地上の城からは遠くまで見渡せたことだろう。
グラフの縦横比は10倍。土塁と堀の高低差も分かる。
4 縄張り

台地側に空堀を掘って防御線とし、三方を土塁で囲んだ堅固な本郭のほか、二つの曲輪で構成された小規模な城砦。本郭には三ヶ所に張り出し部が設けられ、横矢が掛かるよう工夫されている。特に本郭虎口北西に設けられた張り出しは、大手口から本郭までの経路に睨みを利かせており、この城砦の防御の要となっていることが分かる。
河越城攻略の拠点として使われたとのことだが、大兵力を収容できるスペースは無い。香川元太郎の『ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 日本の城』掲載の復元図では、城の外は畑として描かれているが、軍勢が駐屯できる外郭のようなものがあったのではないだろうか。三の郭北側にあったとされる虎口と崖端に沿って西方へ伸びる土塁がそれを示しているように思える。
狭山市公式ウェブサイトには、縄張りの完成度の高さから考えて、現在見られる遺構は北条氏時代のものではないかという意味の事が書いてある。