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小牧山城

1 概要

 小牧山城は、織田信長が美濃攻略のために築城し、1563年(永禄6年)頃から本拠城とした城である。わずか4年間しか使われなかったことから、以前は一時的な砦のようなものと考えられていたが、近年の発掘・研究により、城下町を備えた本格的な城郭であることが判明している。尾張で初めて本格的な石垣が構築された画期的な城であった。

 また1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」に際して、徳川家康が陣城として改修し、そのため江戸時代を通じて尾張徳川家によって「聖地」として保全された。

※ 当ページの主な参考文献、Webサイト:『小牧山城歴史探訪ガイド』(パンフレット)、『織田信長合戦全録』(谷口克広)、『城郭考古学の冒険』(千田嘉博)、『戦国合戦事典』(小和田哲男)、『Wikipedia』

2 所在地・見学情報

 小牧山城址は愛知県小牧市に所在する。現在城跡は小牧山史跡公園として整備されており、山頂には天守風外観の「小牧市歴史館」、山麓には「小牧山城史跡情報館(れきしるこまき)」が建てられていて小牧山城に関する資料を展示している。

 名鉄小牧線小牧駅又は名鉄犬山線岩倉駅からタクシーか、バス停「小牧市役所前」すぐ。駐車場は小牧山北駐車場が利用できる。

3 立地

信長本拠城.jpg

 尾張守護代の分家である織田信秀の跡を継いだ織田信長は家督相続以来、那古野城、清洲城、そして小牧山城へと、勢力の伸長と共にその戦略に適合するように本拠城を移していった。

 美濃攻略後は、稲葉山城を岐阜城と改めて移り、更に1576年(天正4年)には近江に安土城を築いて移った。

 なお、木曽川の流路は現在と異なり、当時は複数あったそうなので、主な流れの推定を記した。

美濃攻略1.jpg

 1563年(永禄6年)、美濃攻略を目指して小牧山城を築城して清洲城より本拠を移した信長は、美濃斎藤氏と結んで敵対した従兄弟・織田信清の属城であった小口城、黒田城を調略によって奪い、さらに翌年には信清の本拠城であった犬山城を攻略して尾張国内を平定した。

 更に、斎藤氏に属していた、木曽川対岸の鵜沼城、猿啄城を下し、その北東に位置する佐藤氏の加地田城を巡っての攻防戦にも勝利して東美濃を手中に収めた。

 その後、氏家・稲葉・安藤ら美濃三人衆の帰順を受け、斎藤龍興の本拠城であった稲葉山城の攻略に成功し、稲葉山城及びその城下の井口を「岐阜」と改名して整備し、小牧山城より本拠を移す。

小牧長久手合戦.jpg

 信長が岐阜に去って後、小牧山城は廃城となり放置されていたが、信長死後の1584年(天正12年)、信長の跡を引き継いだ羽柴秀吉の勢力と、それに対抗する信長の次男・織田信雄と徳川家康の連合勢力がこの地において激突する(小牧・長久手の戦い)。

 いち早く着陣した家康は小牧山の戦略的価値に着目し、陣城として整備して秀吉軍に備えた。遅れて着陣した秀吉は楽田城に陣を進め家康と対陣、戦線は膠着する。秀吉は、池田恒興らの三河攻略策を受けて、別働隊を三河へ向かわせるが、それを察知した家康軍は小牧山城を出撃、岩崎城攻略を目指した羽柴勢を長久手付近で撃破し、勝利を収める。

 このため、現況の小牧山城は、信長築城時の状態と家康改修時の状態が混在している。

地形4.jpg

 小牧山城は濃尾平野北東部に孤島のようにポツンと盛り上がった標高86メートルの独立峰・小牧山に築城されている。尾張から美濃を攻略する足がかりの城を築くには絶好の場所に位置した丘陵である。濃尾平野に築かれた周辺の清洲城や小口城などは、いずれも平地に築かれ、川の水を引き入れて水堀とした平城であるが、小牧山城周辺には水堀とする程の川の流れはない。現在小牧山の東を流れる合瀬川は江戸時代に農業用水として作られたものなので、築城当時は細い流れが散在していた程度のようだ。よって小牧山城は丘陵の高低差を防御の要とする平山城となっている。

地形2.jpg

 国土地理院地図によると、小牧山の標高は85.8メートルとなっていて、麓からの比高は65メートル程である。平地にポッコリと突き出た山なのがわかる。

 (高低差を強調するため、縦横比3倍で表示。)

4 縄張り

小牧山城縄張り図.jpg
縄張り図

 小牧山城縄張りの概略図。現状では、信長築城時代の遺構と家康改修時の遺構が混在し、更に公園整備時に改変されたと思われる部分も多い。パンフレットを見るとその状況が図説されていて分かりやすい。

 山頂に主郭を作り、山容に合わせて同心円状に曲輪が配置されており、どこが城の中心なのか一目瞭然の縄張りとなっている。織豊系城郭の特徴である階層的構造の原型がここに見られるのではないだろうか。と言うか、想像逞しくすれば、小牧山の山容あればこそ信長は階層的構造の縄張りを思いついたのではなかろうか。

 特徴なのは中腹まで直線に作られた大手道で、途中から屈曲して主郭へと続いている。この構造は後に信長が築いた安土城とも共通する。主郭付近には当時としては画期的であった石垣を巡らせて威容を誇っていた。

 南東部には土塁で囲まれた信長の居館があったとのことだが、城本体とは隔絶されているように見える。

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