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写真73
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 堂の尾曲輪から二の丸方向を見る。

 現在は手前中央の崩れた部分からよじ登ることが出来る。当時は木橋が架かっていた。

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 堂の尾曲輪の南端部からは土橋をバッチリ見下ろす事ができる。ここから存分に攻撃を浴びせられるのが分かる。

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 堂の尾曲輪内には西側にのみ土塁があり、西側の防御を重視していた事が分かる。というか、東側は急斜面なので、土塁など必要ないのだろう。

写真75
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 堂の尾曲輪北端から曲輪内部を見る。

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 堂の尾曲輪と井楼曲輪の間は堀切によって隔てられている。当時は木橋が架けられていたであろう。

写真76
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 堂の尾曲輪と井楼曲輪の間の堀切。現在はかなり埋まってしまっている様子。小石がゴロゴロ。

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 井楼曲輪も堂の尾曲輪と同じく、西側にのみ土塁がある。

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 橘ヶ谷へ落ち込む東側の急斜面。こんな急斜面を登ってくる敵はいないだろうから土塁は必要なさそうだ。樹木が無ければ、右下に搦手門が見えるはず。

 拳大の石がゴロゴロしているが、石積みにするには小さい感じ。縁石だったのか、単に地山に含まれているものがここだけ固まって露出しているだけなのか。

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 井楼曲輪北東端。ここも急斜面で、樹木がなければ広く見渡せるだろう。

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 井楼曲輪の名の通り、井楼があったのだろう。

 説明板によると、徳川の将、本間・丸尾兄弟が狙撃されて討ち死にしたのはこの辺りとのこと。井楼の上に立って指揮している時に、直下の斜面まで攻め寄せた武田勢に狙撃されたのだろうか。

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 井楼曲輪北側の虎口。

 曲輪の防御だけを考えたらこの位置に虎口は無い方がよさそうである。  この下にも虎口のような施設があるので、そこから登るための通路と、下の土塁へ出て戦うための出撃口であったのだろうか。

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